「本当の自分は平凡で退屈」でぜんぜんOK!スピリットに目覚めることの意味とは?
目次
光り輝く自己イメージを追いかけて生きづらくなっていませんか?今回は「スピリットに目覚める」ことの意味について書いています。
「本当の自分は平凡で退屈」でぜんぜんOK!スピリットに目覚めることの意味とは
光と影の自分
今日は、ちょっとばかり重い話になっています。
でも、これはイスラが経験したことでもあり、自分の心を本当の意味で満たすきっかけとなった考え方です。
・自分らしく生きたい人、
・心を満たしたいと思っている人、
に読んでもらえたら嬉しいです!
人は誰でも自己イメージを持っています。
そしてそれをいつでも追いかけています。
たとえば、
・キレイでおしゃれなわたし
・誰にでも親切なわたし
・何をやってもスマートなわたし
・みんなの頼りになる親分肌のわたし
・子供にとって完璧な母親のわたし
などなど。
その自己イメージを実現するために努力をしている。
でも、それが実現したとして、自分の心はほんとうに満たされるのでしょうか?
満たされたとしても、それは一時のことで、すぐに消え去ってしまうような気がしませんか?
それはなぜでしょうか。
その理由は、人は「自分が創り出しているその自己イメージ(理想的なイメージ)に囚われてしまい、結果的に自分自身を苦しめている」からではないでしょうか?
高い理想を掲げてはいけないといっているのではありません。
言いたいことは、それは自分の「光側」だということです。
人間には影の部分、すなわち「影側」の部分もあります。
そう、光と影の両方です。
しかし人は影側の自分(本当の自分)をあまり受け入れたくありません。
でも、本当の意味で心が満たされるという状態になるためには、この影側の自分を知り、それを受け入れる必要があります。
本当の意味で「心を満たす」
ではどうすれば影側の自分を知ることができるでしょうか?
それは光側の自分、すなわち「こうなりたい!」という自己イメージのちょうど反対側を考えてみればすぐにわかります。
たとえば、
・「個性的で非凡な存在」という自己イメージを持っている人の裏側は、たいてい「平凡で退屈」な人間というのが影側の部分です。
・しっかり者でみんなのリーダーという光の側の自己イメージを持っている人は、ほんとうは「小心者で他人依存的」な影の部分を持っています。
・いつも理性的で冷静な人という自己イメージの影側には、「非常に感情的で気分が変わりやすい」影の部分があります。
(例えで書きましたが、これらは実はイスラのケースです。)
このように光側の自分と影側の自分とは矛盾しています。
人は影側の自分に気づかれたくありませんし、そうならないように演技していますが、ふとした時に影側の自分が顔を出しますよね。
たとえば、一人でいる時とか。
誰でも影側の自分を覗くのはイヤですし、たいていの場合あまり受け入れたくないんです。
人は「影側の自分」をそれほど重要と感じられないのです。
言い過ぎかもしれませんが、人は影側の自分を毎日踏みにじって生きています。
影側の自分は、顧みられることなく、置き去りにされているのです。
しかし演技をして、がんばって、人から認められたとしても、いつまでたっても満足できないし、心も満たされないのではないでしょうか?
「自己価値に目覚める」ことはスピリットに目覚めること
では、影側の自分が受け入れられないのはなぜでしょうか?
それはわたしたちが勝手にそうした部分に価値がないと判断してしまっているからです。
たとえば、平凡で退屈な私になると価値がないとか、小心者で他人依存的な私には価値がないとか。
この場合、必ずと言ってよいですが、自分自身がそれほど重要と感じられないという思いを抱えています。
だからこそ正反対の自己イメージへの追求へとつながっていくのです。でも影側の自分にはほんとうに価値がないのでしょうか?
そうではありません。
それは大きな価値があります。
たとえば、
平凡で退屈な人間だからこそ、他人の気持ちがわかるとか、
小心者だからこそ、何事も慎重に取り組むとか、
他人依存的だからこそ、他人の弱さを受け入れることができるとか、、、。
平凡で退屈な自分も小心者で他人依存的な自分も、実はすべてその人の「らしさ」でなのです。
どんなにイメージを作っても自分そのものは変えられません。
その「自分らしさ」を受け入れ、それを中心軸にして生きてこそ、内的堅固さを獲得することができます。
ここで内的な堅固さとは、自分の内的価値に従って生きることを言います。
自分の内的価値に従って生きることは、自分の演技の観客(他人)の評価に依存せず、自分の内側から自己の存在を正当化できる「価値」に従って生きることを意味します。
内的価値とは、要するに、影側の自分(内側の自分)からにじみ出てくる価値のことです。
こうした価値を踏みにじらないでほしいのです。
もちろん、光と影はセットなので、もちろん光の側の自己イメージも必要です。
でも、光側の自分のみを追求していると、
ふっと「他人にこんな風に思われたらどうしよう、本当の自分を見透かされてしまったらどうしよう、嫌われてしまうかも・・・」と、
内心、いつもビクビクしていなければなりません。
こんな状態は、実は内的堅固とは程遠い状態なのです。
反対に、内面価値にしたがって生きると、自信をもち、演技ではない自己表現ができるようになります。
受け入れられないでずっと避けてきた「影側の自分」に気づき、それを受け入れてみましょう。
それ覗き込んでみると、空っぽだと思っていたその奥には、偉大なる力の源泉があります。
これが、スピリットの目覚めの意味です。
イスラ自身も、数年前までは光の部分、自己イメージだけを追いかけて生きていました。
でも、「もっと、もっと」の連続で、心が満たされることはありませんでした。
ある時から、「平凡で退屈なわたし」という影の部分も受け入れて、大切にしようと考え方を変えてから、とても生きやすくなりました。
一言でいえば、「等身大の自分で生きる」ということ。
ここから、イスラにとってのスピリットの目覚めが始まったと感じています。
今回は、これをみなさんとシェアしたっかったのです。
ぜひ影側の自分を見つめてみませんか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました